内分泌外科 岡本高宏
最近、けがをされた患者さんの傷を縫う機会がありました。創部をよく観察して十分な洗浄と消毒、そして局所麻酔を行ったのちに、手術用の滅菌手袋をはめて器具と糸を使いながら縫合します。 今の外科医療では当たり前の清潔操作ですが、昔はそうではありませんでした。19世紀の終わりころまで“消毒”という考えはなく、外科医は普段着のままに素手で手術をしていたのです。病院は感染症の巣窟で、手術やお産の後に多くの人が「感染症」で命を落としていました。
イギリスの外科医、ジョセフ・リスターが“消毒”の重要性を説いたのは1867年、そしてアメリカの外科医、ウィリアム・ハルステッドが手術用手袋を考案したのが1890年のことです。 リスターが示した消毒の効果に感銘を受けたハルステッドは自らの医療チームの同僚にも手指の消毒を強く求めました。しかし彼が手袋を考案したのは別の理由、のちに妻となる女性への想いからでした。
ジョンズ・ホプキンス大学の医学部を創ったとされる“偉大な4人 (Great Four)”の一人であるハルステッドは外科部門の責任者で、現在の研修制度(レジデント制)を米国の外科医教育に導入したことでも知られています。 同病院の手術室でハルステッドの担当(術者の最も近くにいて、必要な器械を手渡す)看護師であったキャロライン・ハンプトンは手術前の手洗いに使う消毒薬にかぶれて、ひどい皮膚炎に悩まされていました。 有能な看護師であった彼女の悩みを知ったハルステッドはゴム製造会社(グッドイヤー・ラバー・カンパニー)に依頼してゴム手袋を試作してもらったのです。 その効果は絶大でキャロラインは皮膚炎から解放され、やがて外科医たちも手術用のゴム手袋を着用するようになりました。のちに、その普及によって手術に関連した感染症がさらに激減したことが報告されました。
今のような専門分野に分かれていなかった当時、ハルステッドは乳がんや鼠径(そけい)ヘルニア、腹部内臓の手術そして骨折の治療など様々な外科医療の発展に貢献しました。 さらに局所麻酔法を開発したことでも知られています。また、甲状腺手術の際に一緒に摘出されてしまった副甲状腺を身体に戻す方法(自家移植手術)を実験で示して報告するなど、内分泌外科の先駆者でもありました。
手袋に話を戻しましょう。消毒による皮膚炎を解消し、感染症の予防にも貢献した手術用手袋ですが、近年になってそのゴム成分であるラテックスへのアレルギーに悩む人がでてきました。 かく言う私も外科医になって数年経った頃から手術の後で手指が赤くなって猛烈に痒くなることを繰り返し、ラテックスが原因と判明しました。 患者さんでも医療用ゴム(カテーテルなど)で強いアレルギー反応が起きた報告があります。このアレルギーではキウイやバナナなどいくつかのフルーツでも同様の反応が起こる可能性があります。 診察の際にアレルギーについてお話を伺うのはこうしたリスクを避けるための大切なステップなのです。 また、最近ではラテックスを含まない手袋や医療製品が登場してアレルギーを起こさない工夫が進んでいます。ハルステッドが推し進めた“患者さんの安全”という視点は、今や世界中の後輩たちが受け継いでいます。
キャロラインとハルステッドは、ちょうど手袋を試作してもらった頃、1890年の6月に結婚しました。それからの32年間、ふたりは仲睦まじく過ごしたようです。
このブログを書くにあたって、以下の資料を参考にしました。